日々成長していくためのブログ

雑記ブログ。日々新しい発見をして、考えをまとめていきたい。

人に批判的になってしまうのはなぜか、どう改めるか

口には出さないまでも、脳内で人に批判的になってしまうことがしばしばある。人を攻撃したくないし、傷つけたくもないので、このような批判的になってしまう考えを改めたい。どうしたらよいか。

 

まず、なぜ批判的になってしまうのか。批判対象になっている人のことを思い浮かべてみる。思い浮かべるときは、しばしば嫌なことを言われたことを思い出してしまっている。フラッシュバックである。この現象により、その人から頻繁に攻撃を受けている感覚に陥ってしまっているのである。これにより、自分もその人を攻撃したい精神状態になってしまう。

 

まず第一に、嫌なことを言われたことを思い出すことを止めること。現在に意識を向けて、その人から今は攻撃を受けていないのだと強く認識する。更には、その批判対象になっている人と過ごした良い思い出を思い起こすようにする。ああ、あのときはお世話になったな、と思い浮かべるのである。これによりその人への正の感情が湧き出してくる。

 

第二に、嫌なことを言われたとそこで止めるのではなく、なぜ嫌なことを言われてしまったのか、と考えてみる。自分に何かしら悪い部分がなかったか、想像力を働かせてみるのである。その人の気持になってみれば、何か言われても仕方がないと思えるかもしれない。ああ、あの時迷惑をかけてしまったな、悪いことをしたな、と考えることにより、その人への理解が深まるであろう。

 

その人への正の感情が生まれてその人への理解が深まったら、今度は(可能であれば)自分がその人に何かしてあげることはできないか、と考えるのも良いであろう。ああ、自分はあの人に何かをしてもらってばかりで何もしてあげられていないな、と思うのであれば、特にお返しすることを考えると良い。

仕事メールで誰に送るか?

仕事でメールを送る時には、その仕事に関係する人全員に送るのではなく、内容によって誰に送るべきか決めるようにしよう。

 

研究をしていると、共同研究者にメールを送る機会が多々ある。内容は僕の場合、研究が進んだことの報告や、研究についての相談が多い。前者については共同研究者全員に送っても良いと考えるが、後者は相談内容で詳しい人にのみメールするようにしたほうが良いと考える。受け取り手も、日々多数のメールを受け取っていると想像されるため、その人の負担になると考えられる場合にはメールしない気配りが必要だからだ。人間関係での信頼を得るためにも、細かい気配りは大事だ。

 

ただ相談事でも、誰がその内容に詳しいかわからない時、特に一番最初の相談をするときには、関係する人全員にメールして誰がその内容に詳しいのかを知る必要もあるのだと考えている。要は、(当たり前であるが)無闇矢鱈に誰彼にメールするということがないように気をつけることが大事だと思う。

なぜ?どうやって?という疑問に対して、すぐにネットに頼ってしまう癖に気がついたので直したい

情報過食というのは、必要でない情報まで無為に得ることを継続的に行っている状態だと考える。先も「どうやったら自炊を楽しくできるか?」という疑問を持って、少し考えた後でネットで検索をしたが、すぐに欲しい情報を見つけることができない。こうして、必要な情報が得られるまで検索を繰り返していっては、必要のない情報まで取得していって、脳が混乱してくる気がしている。

 

僕はどうも疑問を持ったらすぐに検索してしまう癖がある。よくあるバグをどう直すかなど、単純な疑問ならば検索すればすぐさま必要な情報が得られることが多い。しかし「どうやったら?」や「なぜ?」といった、一口では答えることができない疑問については、検索で答えを見出そうとすると検索量が増えてしまうことに気がつく。このような疑問の場合には、すぐさまネットに頼るのではなく、自分で考え抜いて見てはどうか?と自分に言い聞かせる。

 

「どうやったら自炊を楽しくできるか?」

 

僕はよくワンパターンな料理を作りがちである。このような料理をして食事をしていると、すぐに飽きが来てしまい、「今日は外食にしようかな」という欲望に意識が向きがちである。しかしながら外食も僕の場合ワンパターンになりがちであり、外食でも、より根本的な「食事をもっと楽しみたい」という欲求を満たすことができないことを経験的に知っている。

 

自炊(外食も)を楽しくするためには、単純ではあるが、毎日違ったものを食べるのが良いのではないか?と考えている。そのためには料理の食材にバラエティーをもたせていけば良いと考える。思えば買い物に行って、今日は何を買おうかなとスーパーをまわりにまわっては、いつも似たような食材を買っている。まずは食材を変えてみよう。そして調理法も工夫してみるとよい。現在、焼くと煮るのみの調理法しかしておらず、揚げる、蒸す、茹でるといった調理法を行っていない。調理法も増やしていこう。

 

食材のレパートリーを増やして、調理法を変えるのは良いが、肝心の何を作るか、についてのビジョンがまだない、のでビジョンを持っていこう。現在冷蔵冷凍庫に有るのは牛肉、人参、ブロッコリー、カリフラワー、チーズ、そうめん、米、卵、わかめ、ケチャップ、醤油、テリヤキソースである。何が作れるかな?リゾットのようなものが作れるかもしれないし、オムライスが作れるかもしれない。料理もレシピに頼らずに、自分で考えてみよう。ただ、どんな料理を作るか?のビジョンはしっかり持っていきたいな。

 

情報過食を止めよう

情報の過食をしていることに気がつく。気がついたらSNSのサイト/アプリを開いて目を通してしまう。また気がついたら動画サイトを開いて動画を見てしまう(最近は自制)。その情報、自分のために必要なのか?

 

今自分に必要な情報とは?

・研究・仕事を進めるのに必要な情報。

・生産的な趣味と考えているお絵描きを上達させるために必要な情報。

その他にも必要に応じて色々な情報がほしいと思うであろう。例えば出張先や旅行先である場所にたどり着きたいと思ったときには、Google Mapを開いてどうやって行くかの情報を得たいと思う。料理をしていて、ある食材がほしいと思った時に、その食材をどこで買えるか調べたい時もあるであろう。しかし細々とした情報は、その時々に応じて調べれば良い。

 

しかしながらSNSや動画サイトでは、必ずしも自分のためになる情報が得られるとは限らないと思っている。世間で話題になっている情報はSNSや動画サイトから得るのに適しているであろうが、世間で話題になっている情報が、必ずしも自分を成長させるために必要であるとは限らない。もちろん、人と話すときの雑談のネタにはなるであろうが、これらのネタで話を盛り上げようと思ったら、自分の解釈がやはり必要になってくるであろう。この話を盛り上げるためのきっかけを作る情報を取得するのにSNSや動画サイトは役に立つであろうと考えた。しかし、話のネタを過度に入手することが、自己の成長につながっていくであろうか。僕の場合は、きっと取得した情報を処理しきれずに混乱してしまうであろう(実際にそうなっていると感じている)。

 

自己の成長を促すためには、情報過食を止めなければならないと思うのである。スキマ時間にスマホを無意識に取り出して情報を得る癖を止めることからはじめていきたいと考える。周囲を見れば、スマホ以外からも実に様々な情報があることに気がつくであろう。今日の気温、湿度、周りの混雑具合、人々がどのように振る舞っているか。昼食で長い列に並んでいるときには、前の人々がどんな人であるか、今どんな気持ちか、何を考えているか、想像力を働かせてみるのも面白いことに気がつく。列に並んでいる時にはほとんどの人がスマホに目を向けて情報を取得していることに気がつく。ああ、時代が進んで行くのを感じる。

 

 

マルチタスクを直したい

マルチタスクになっていることが多いと感じる今日このごろ。なぜマルチタスクになっているのかと少し考えてみた。

 

ここ最近は時間のかかる計算を行っていて、その待ち時間に他の仕事に取り組むといったことをよくやっている。ある計算をやって、すぐに他の仕事に取り掛かってしまうと、マルチタスクになってしまうのだと気がついた。これでは脳が混乱してきて、落ち着かなくなってしまう。それぞれやっていることの効率も上がらない。どうしたら改善していけるだろうか。

 

計算の待ち時間には、その計算に関係することを考えるようにすれば、マルチタスクにならず混乱せずに済むのではないか?計算を待っている間にその計算と関係する内容の論文を読んだり、あるいはすでに終わっている関連する計算の解析を行ったり、あるいはその計算に関係する論文を書き進めたり、といった具合である。このようにすれば、混乱することはないだろう。

 

僕が今陥っている状況は、ある計算を行っている間に、全く別の研究の計算を別の計算機を使って同時並行で行っていて、前者の計算のチェックをしたり、後者の計算のチェックをしたり、後者の計算のデバッグを行ったり、といった状況である。これでは混乱してしまっても無理はないと思う。マルチタスクをやめ、より効率的に仕事を進めていくには、まず自らのマルチタスクに気がついて、意識的に直していくことが必要だ。

 

なぜ2つ以上の仕事を同時にこなそうとしてしまうのか?仕事がある以上、すべての仕事を少しづつでも前進させたいという心理的な側面が働いて、あっちもこっちも進めなければ、という気持ちになっていることが要因の一つである。また、片方の仕事は1年以上継続して行っており、早急に片付けなければという思いが働いて、焦ってしまっているのも原因であると考えている。自分締切が迫っているため、焦ってしまうのもある程度は仕方がないかもしれない。しかしそれでもマルチタスクでは仕事効率が上がらない上、体も疲れやすくなってしまうのであるから、うまく対処していく心がけが必要だ。

創造力増強のためにどうしたらよいかと思考を巡らす

前に消費的な趣味と生産的な趣味について考えたが、これを別の視点から考えてみる。「自分独自の思考や考えを生んでいるかどうか」。

 

今日は読書をしていて、他の人の書く文章から想像力を働かせて積極的にイメージをするよう心がけたのだが、いまいち今の自分にしっくりこない。何が足りないのかな?と考えたのだが、どうやらそこから自分独自の何かが生まれていると感じられないことに物足りなさを感じたのだと気がついた。読書後に余韻に浸って、ああ、あのシーンは良かったなとか、もっとこうだったらいいのに!というものがなかったのである。そしてその余韻をバネに自分もこんな物語を書きたいだとか、あのシーンを絵にしたらどうかな?ということもなく、より生産的な活動に結びつかないのである。もちろん読書をして余韻に浸ったからと言って、このような生産的な活動にすぐさま結びつくもんか、とは思っているが、それにしても全くあるいはほとんど余韻がないというのはいささか寂しい。

 

想像力が不足していることを以前自覚したのだが、さらに創造力に結びつくようにしていきたいんだ。読書は想像力を高めるのによく良いと言われているが、他の人の書いた文章を想像していくだけでは創造力になかなか結びついていかないのでは?(いや、僕がこの文章いいな!と感じる感性を欠いているだけだろうか。)そう思って、最近は読書量を減らしている。代わりに絵を描く量を増やした。まあ絵を描くと言っても模写であるが。これも他の人の考えた絵を元に描いていくという点で読書と同じかもしれない。

 

一旦整理。

・読書は人が書いた文章を元に想像する。

・お絵かき(模写)は人が描いた絵を元に描く。

こう書くと、どちらも似ているように見える。うーむ。上の文章を書いている段階では読書より絵を描くことのほうが創造力増強に良いと思っていたが、どうであろう。読書は読了後に余韻に浸ってあれこれ考えて自分の想像意欲を駆り立てることができれば創造力増強に結びつくであろうが、経験的にこのようになったことがあまりない。一方でお絵かきは、模写にしても常に自ら何かを生み出していて、また「自分もこんな絵をもっと描きたい!」という気持ちがふつふつと湧いてくることが多々ある。自分にとって、お絵かきの方がやはり創造力増強に向いていそうだ。おそらく個人差が有るのだろう。文章を読んで感受性がずっと豊かな人は、自分もこんな文章を書きたい!物語を作りたい!という気持ちになって、自然と筆が進むのかもしれない。

 

もっと創造的な人間になるために、僕はもっとお絵かきをやっていくんだ。さらに、人に見せられる絵を描いて、共感を生んでいきたいんだ。

前進するためには疑問を持ち続けること

一つのことに長時間従事する時に、2つのモードがあることに気がついた。没頭と混乱である。前者は集中して何かしらの進展を継続的にできるモードであり、後者は同じところをぐるぐる無為に回っているモードである。例えば計算のデバッグをする時に、なぜこのエラーが出るのか?どうやったらエラーを無くすことができるのか?と常に疑問を持ちつつ、その問題をなくしていくことができるときには没頭モードである。逆に、これらのような疑問なく、ただ漠然と少し計算の設定を変えて何度も同じような計算をしては同じエラーに遭遇するというときには混乱モードである。例えば、人物模写をする時に、どのようにしたらきれいな線を描けるのか?なぜこの人物は美しく見えるのか?と常に思考しつつ、トライアンドエラーできれいな模写ができるときには没頭モードである。逆に、ただ漠然と模写しては同じような失敗を繰り替えすようなときは混乱モードである。

 

上の文を書いていて気がついたが、何かに取り組んでいるときには常になぜ?という疑問を持つことが先に進むために必要なのだと思った。今朝は計算のデバッグをする時に混乱モードだったときがあったので、反省している。疑問を持ち続けて思考を巡らす習慣を付けていこう。