日々成長していくためのブログ

雑記ブログ。日々新しい発見をして、考えをまとめていきたい。

贅沢・だらしない習慣を改善したい

外食が多いと、食費が高くなる。外食が当たり前といったような雰囲気の環境にしばらく身をおいていたためか、流されやすい自分もそれに影響されて外食をメインにしていた感があり、反省している。自炊をするようになってからは食費が幾分安くなったが、それでもまだ贅沢しているな、という感覚が否めない。外食がだめというわけではないのだが、過剰な贅沢をしている気がする。少しずつでいいので外食の回数を減らしていこう。

 

自炊を続けていくにあたっては料理のバリエーションに気を使っていきたい。買う食材と調味料は毎回変えていくように心がけよう。

 

贅沢をやめることによって、心が引き締まって、他のことでも気を引き締めてことに取り組んでいけるのではないか?自制心を鍛えることになるので。他のことでもだらしなくなっている部分がないか?考えてみると、身だしなみや洗濯のたたみ方、掃除などきちんとできていないと感じる部分がある。少しずつ改善していけないだろうか。

インプットとアウトプットのバランスを取りたい

過度な情報によるインプットが多くなりすぎると、自分を見失ってくるため問題であるが、インプットを遮断してしまってアウトプットばかりしていても独りよがりになってしまって問題である。ここ数日アニメ断ちしてからというもの、インプットに敏感になりすぎて、入ってくる情報を何でもかんでも遮断しようとしまっている自分に気がついた。

 

インプットとアウトプットのバランスは、情報を仕入れて考えていって自己を高める、という過程で必要なのだと思う。食事を例えに考えてみると、インプットばかりでは食べ過ぎになってしまって太り、不健康になってしまう。不健康になってしまっては、体も動きにくくなるだろう(アウトプットの質が下がる)。逆にインプットを減らしすぎてしまっては、食事によるエネルギーが足りなくなって、やはり体が動きにくくなってしまう(アウトプットしにくくなる)。体を活発に動かしすぎてはすぐにエネルギー不足になってしまうし、全く体を動かさないと食欲が減っていくであろう。

 

同様に、情報のインプット・アウトプットのバランスも、健康的な活動のためには必要である。ある程度インプットして満足したならば、アウトプットにうつってエネルギーを消費し、疲れてきたらまたエネルギーを補給する、といったイメージで、情報社会を生きていきたい。

 

アウトプットという時には、自分で考える活動が含まれていることを想定している。お絵かきをするにも、基本を学ぶのは良いのだが、途中で自分の考えで絵を描いていく、ということも創造性を高めるためには必要だ。

 

インプットして人の意見を知って、アウトプットして自分の考えを進めていく、そんな創造性の高い生活をしたい。

いろんな人と交流し業界に貢献したい

もっと業界に貢献していきたい、影響力を高めたいと考えている。研究職においても、助教から准教授、教授へといった出世(必ずしもこうではないが)があるのであり、後者になるにつれて業界への貢献を意識していて影響力が高い。逆に、業界に貢献して影響力が高い人が出世していくのである。

 

出世といってこれらの役職に就きたいと思っていると、そのことに振り回されていて自分の人生を生きていないと思うときがある。本当にそうであろうか。自分でその職に就きたいという意志を持って、人生をプレーしているのならば、自分の人生を生きているという感覚がでるはずだ。逆に出世することだけが目的になって自分を見失っているのであれば、自分の人生を生きていないのであろう。僕はどうだろう。出世して、皆に貢献していきたいと考えているのだから、前者であると思っている。しかし実際にそのように振る舞えているかどうかと考えると、そうでない。(振る舞えているかどうか、と考える時点で自分の人生を生きていない?)貢献していきたいという熱が足りないのかもしれない。

 

どうしたら研究業界に貢献したいという情熱をより燃え上がらせることができるだろうか。まずはいろんな人と交流しようという意識を持つとよいだろう。自分に何ができて、自分が業界にいることでどんなメリットがあるのか?についても考えたい(これはオフラインで考えたい)。

 

周囲の人が組織や業界にどんな貢献をしているのかと考えるのもよい。ああ、あの人があの仕事をしてくれたからこんなことができるようになったな、あの人のおかげでこの研究会が盛り上がった!と詳らかに気がついて、自分だったらどんなことができるのかな、と考えてみるとよいのではないか。

 

いろんな人と交流していくためには、まず自分で自分に貼っている「コミュ障」のレッテルを剥がさなければならないと考える。自分の話していることが相手に正確に伝わらないことがあって、相手の言っていることがわからないことがあるのであれば、これらをどのように改善していけるだろうか。人と話す時に真剣さがあれば、仮に何か問題のある部分が出てきても、自分を許すことができるかもしれない。

 

思えばなにか失敗してそれを怖がって次に繋げられていないことが多いと考える。今度人と話してまた同じことになったら嫌だな、とか考えてしまう。失敗しても自分を許して次を怖れずに次に繋げられるようにしていけば、人と話す回数も増えていくのではないだろうか。

 

同じ人ばかりと関わることは控えていきたい。特定の人に依存していると自分が感じてしまうからである。いろんな人と関わって、いろんな考え方に触れたい。

ネットで調べ物をしたとしても自分で考える習慣を持とう

わからないことをすぐにネットで何でも調べてしまう癖があることに気がついている。自分で考えようとせずに、疑問に思ったことの答をすぐ得たいと躍起になってしまう。こうしていると、思考力が弱っていくのではないかと考えている。

 

なぜすぐに調べてしまうのか。わからないと、自分で考える力が足りないために、考えてもすぐにわからないため、ストレスがかかってくる。このストレスをすぐに解消したいと、手軽であるネットに頼ってしまっている、というのが今の僕ではないか。ググれカスでなく、ググってるカスになってしまっている。

 

研究をしていて、思考を続ける必要がある時にはストレスを感じてしまうときがある。思考体力が足りないのではないだろうかと考えている。日頃から、自分でよく考える習慣を持っていきたい。何か問題に直面したときに、ストレスを感じてしまうこともあるだろうが、そのストレスに気づいたとしてそのストレスを安易にネットで調べることで発散しないようにしたい。別の方法でストレス発散できればと思う。

 

やはり「なぜ」「どうして」といった疑問に答える時には自分で考えるようにしたいな。知識を得るための検索は良いであろう。

 

検索をして調べるのが悪なのではなく、考えない自分が良くないのである。仮にネットで調べ物をしても、きちんと自分の意見を持つようにしていきたい。

指示待ち人間を脱却しよう

自分は指示待ち人間の傾向があると思っている。研究室に訪問する人と議論する時間が割り当てられてもらうチャンスがある時に、率先して時間を割り当ててもらおうとしない。人が言ったことにすぐに流されてしまい、自分の意志を簡単に変えてしまう。人が自分をコントロールしようとすると感じる時、Noと言えずに従ってしまう。どうしたら改善していくことができるだろうか。

 

何かチャンスが与えられたときには、率先して動くよう意識してみよう。そのようなチャンスが与えられることは幸運なのだと考えれば、自然と意志が動くのではないだろうか。

 

人にコントロールされていると感じるときにも、Noと言えるように訓練しよう。相手の押しが強くてNoと言いづらくなるときには、自分の予定を作ってしまおう。

 

人の人生を生きるのではなく、自分の人生を生きる勇気を持とう。前者は人の意志によって自分が動く生き方で、後者は自分の意志で動いていく生き方だと思っている。自己中心的に生きるという意味ではなく、人のためになることをするときにでも、自分の意志で自分が良いと思うことを行うようにしよう。

 

人にコントロールされていると感じて、その時にその人の意志に従うときにも、自分の意志で従っているのだという意識があれば、それはそれで良いと考える。要は、自分の意志か、そうではないか、が肝要だ。

日常を楽しく過ごす方法についてネットから答えを見つけようとしたが

どうしたら日常を楽しく過ごしていけるのかと考えている。こう少し疑問がもたげてきたときには、決まってネットで検索をして、答えを見出そうとする。しかし似たような疑問を思い浮かべることが日常何度もあり、その時に同じサイトを何度も巡り巡っている自分に気がついた。ネットで得た情報を、自分の身にすることができていなかったのである。なぜか。他の人が考えたことは、自分の考えたことではないので、合わないことがあるし、調べただけで満足してすぐ忘れてしまう、ということが多々あるのだと思う。情報断捨離をすると決めていたのだが、まだ情報に惑わされている感が否めない。

 

何度も同じサイトを見てしまう癖をどのようにして直すか。疑問に思ったことについて、ネットで検索してしまう衝動を、ぐっとこらえて、自分で考えるようにするようにすれば良いと考える。以前にも書いたと思うが、「なぜ」「どうしたら」といった疑問には、自分で答えを見出すようにしていきたい。(単純な知識、例えばプログラムでエラーが出たときの対処法について、は検索しても良い)

 

どうしたら日常を楽しく過ごしていけるか?自分の意志で日々を送っているのだ、という感覚を持てば良いのだと考える。外的な要因で自分を動かすのではない。テレビや動画、ネットからは様々な情報が入ってくるが、それにむやみに惑わされずに、自分の意志を明確に持って行動するように心がけよう。自分にとって有益だと思う情報であるならば、取り入れていこう。

日記ブログは良い

このブログが日記ブログになっているということに気がついた。それでよいと考えている。

 

僕にとってこのブログが日記ブログでよいかどうか判断するのに、思考が二転三転した。ブログでは日記のような雑多なことでなくより専門的なことを発信するほうがよいという考え方もあれば、あまり人に見てもらえなくても少しでも人に文章を見てもらいたいからブログで日記を書くという考え方もある。どちらの考え方が僕に近いであろうか?後者だ。

 

より個人的なことを書くのであれば、別のところで日記を書くという選択肢がある。殴り書きでもよいので自分の感情を吐き出したり整理したりと、人に見られないことを前提とした整っていない文章ならば、ネットには上げないであろう。僕は果たしてそのような文章を書きたいのだろうか?否。

 

以前、ノートで日記を書いていたことがある。日記を書いていたときは、自分の精神状態や考えを整理できて、非常に役立っていた。しかしある時から物足りなさを覚えるようになった。僕はノートを見返すという習慣がなかったために、書いた文章はただ闇に葬られるばかりであったのである。過去に書いた文章は誰かの目に触れられることを意識しておらず、あまり整理されておらずぎっしりと密になり、自らも読み返す気にならない有様であった。紙媒体であったために、少し前に書いた文章を後から修正するということも難しかったことも、文章が整理されなかった要因かもしれない(この辺は個人の力量による)。

 

ネットにブログという形で日記を書く場合には、ログを検索でき、現在思っていることが過去にもなかったかと思ったときにもすぐに調べることができる。読みづらい文章を書いては行けないという意識も生じるために、自然と文章を整えようともする(実際に整っているかどうかは別としてね)。よりきちんとした文章を書く訓練としても、ネットに公開する日記はよろしいのではないかと考えるようになった。

 

ブログを書く目的は様々だと考える。たくさんの人に自分のブログを見てもらいたい場合には、そのためにいろいろ考えて書く文章も自然とそのように補正されていくであろう。もしブログを書くのが、自分を成長させたり、自分の気持を整理したりすることが目的であり、かつそのブログを少しでも人に見てもらってほしいと思うのであれば、日記ブログは大いに良いと考える。